2010年03月04日

羽田空港 濃霧で82便欠航…2万人超に影響(毎日新聞)

 東京湾一帯で25日朝、濃霧が発生し、羽田空港では午前11時現在、少なくとも国内線の82便が欠航し、31便が目的地を変更したり出発地に引き返したりして2万人以上に影響が出た。船舶事故も発生し、入港制限が勧告された。

 日本航空によると、羽田空港の発着便は36便が欠航、出発空港への引き返しなどが15便で、約6000人に影響が出た。全日空によると46便が欠航、16便が目的地を変更するなどして約1万5000人に影響が出た。

 同日午前7時5分ごろ、羽田空港の東約2300メートルの洋上で、航行中のタンカー「豊顕丸」(149トン、乗組員3人)が砂利運搬船「第5順徳丸」(499トン、乗組員3人)と衝突した。海上保安庁によると、けが人や油の流出はなかった。視界が1キロ以下のため、東京湾海上交通センター(東京マーチス)が船長200メートル以上の船舶について入港制限を勧告している。久里浜(神奈川県横須賀市)と金谷(千葉県富津市)を結ぶ東京湾フェリーは4便が欠航した。

 気象庁によると、濃霧の発生は、太平洋上から湿った空気が東京湾内に入り込んだため。明け方から東京23区や千葉、神奈川県などで濃霧注意報が出た。羽田空港内の東京航空地方気象台によると、濃霧は午前6時55分に確認され、一時は肉眼で見通せる距離が100メートルに限られた。午後には解消の見通しという。

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2010年03月02日

<雑記帳>スピードの加藤選手の母校 センバツに初出場(毎日新聞)

 バンクーバー冬季五輪のスピードスケート男子五百メートルで銅メダルを取った加藤条治選手(25)の母校・山形中央高の駐輪場に「条治を超えろ!!」と書かれた縦1.5メートル、横10.5メートルの看板がある。

【感動を写真でもう一度】長島が銀、加藤が銅 スピード男子五百

 加藤選手は高校総体で3連覇し、高校時代にワールドカップ(W杯)で準優勝2回。輝かしい戦績を記念して、卒業半年後の03年10月に作られた。「『条治を目指せ』の案もあったが『超えなきゃだめだ』という意見が出て変更された」と同校教諭。

 母校はセンバツ21世紀枠で甲子園に初出場する。松田道明教頭は「野球部も『条治を超えろ』で、優勝か準優勝を目指してほしい」と舌の滑りも絶好調。【鈴木健太】

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土師馬手

土師 馬手(はじ の うまて/まて、生年不詳 - 和銅4年2月26日(711年3月19日))は、日本の飛鳥時代の人物である。姓は連、後に宿禰[1]。位階は従四位下。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)につき、信濃国など東山道の兵を興す使者になった。持統天皇と文武天皇の葬儀に働いた。事績壬申の乱が勃発したとき、土師馬手は屯田司の舎人であった。どこの屯田かは不明だが、後述の莬田(大和国の宇陀郡)の近くであろう。その屯田が大海人皇子のためのものであろうとする説と、そうとは限らないとする説とがある。壬申の年(672年)の6月24日、近江の朝廷と戦うことを決めた大海人皇子は、吉野宮から東に急いで莬田の吾城に至った。このとき、土師馬手が一行に食事を提供した。馬手はそのまま皇子に従って行をともにしたらしい。伊勢国の朝明郡で、皇子は土師馬手を稚桜部五百瀬とともに東山(東山道)に遣わして兵を興させた。以上は『日本書紀』の記述で、『釈日本紀』は『安斗智徳日記』の中に(皇子が)「信濃の兵を発させた」という文があると指摘する。両書の違いは動員が上野国、下野国などまで及んだかに関わる。乱の後、書紀が天武天皇、持統天皇の代を記す中に馬手の名は現れない。天武天皇13年(684年)2月2日に、土師連など50氏は宿禰姓を与えられた。『続日本紀』では、文武天皇とその次の元明天皇の代に、天皇の陵と葬儀に関する記事で馬手が頻出する。馬手はその中心というわけではなく、多数の官人の中の一人ということが多かった。まず、文武天皇元年(697年)1月19日に、新羅の使者金弼徳らが持ってきた貢物を献じるため大内山陵に遣わされた。文武天皇3年(700年)10月20日に、越智山陵と山科山陵を修造するために官人が二手に分かれて派遣されたとき、山科山陵に大石王・粟田真人・土師馬手・小治田当麻と判官3人・主典2人・大工2人が遣わされた。大宝2年(702年)12月22日に持統天皇が死ぬと、翌大宝3年(703年)10月9日に、御葬司が任命された。その正五位下土師宿祢馬手は、息長王、高橋笠間とともに、造御竈長官の志紀親王を補佐する副になった。葬儀はその年の12月に執り行われた。慶雲4年(707年)6月15日に文武天皇が死ぬと、10月3日に正五位上土師宿祢馬手が、下毛古麻呂(下毛野古麻呂)・民比良夫・石上豊庭・藤原房前とともに造

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